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円覚寺 (えんかくじ、琉球語:ウフティラ〔ウフティラ 首里・那覇方言データベース〕)は沖縄県那覇市の首里城北面にかつて存在した臨済宗の寺院。 == 歴史 == 第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていた。 明治時代の琉球処分後、仏殿、三門、方丈などの寺の伽藍は昭和8年(1933年)国宝に指定されたが、第二次世界大戦で放生橋(ほうじょうばし)を残して全て焼失した。跡地は戦後、昭和23(1948)年に琉球大学の教員宿舎が、昭和40(1965)年頃に同大学のグラウンドが建設され、基壇や石畳などの遺構は破壊もしくは地下に埋め込まれた。昭和43(1968)年に総門が復元され、放生池の修復が行われた。昭和59(1984)年に琉球大学の移転が完了し、遺構の全容解明と復元整備が進められている。旧琉球大学跡地を除く残りの敷地は、現在沖縄県立芸術大学の一部となっている。 円覚寺にはかつて第二尚氏歴代の肖像画が保管されていたが、全て戦災で焼失している。戦前に撮影されたモノクロ写真によって画像は残っており、現在の首里城に展示され、wikipediaの第二尚氏各歴代王の項目にも引用されているが、当時の肖像画の色彩は今でも不明のままになっている。 再建された建造物が総門のみの為、参考写真のように放生橋(放生池)越しに総門を奥にした構図が多く誤解されがちであるが、三門、仏殿などの伽藍は池の手前側にあった。 かつて沖縄戦で焼失した三門を復元することが沖縄県の発表でわかった。2015年度中には設計して、2018年には復元する予定である〔琉球新報(2014年10月27日) 〕。復元を実現するのは1968年の総門以来50年ぶりで話題となる。 平成26(2014)年10月には、沖縄戦で焼失した仏殿什器の一部で行方が分からなかったとされる2つの牌(はい)が沖縄県立博物館・美術館内に保管されていたことが14日に明らかとなり、文化財の美術工芸品のクラスの貴重な資料となる〔朝日新聞デジタル(2014年10月16日) 〕。 平成27(2015)年4月に、戦前の図面を公開、図面は沖縄美ら島財団収蔵の森政三(1895年-1981年)のコレクションに含まれており、貴重な史料である〔沖縄タイムズ夕刊(2015年4月16日) 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「円覚寺 (那覇市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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